宗教を信じる心・信じたい心 若者はなぜ宗教を信じるのか? オウム真理教の平田信容疑者の場合は??

宗教というものは難しいものである。その実態が見えるようで見えない。神を中心に宗教の世界は動いていると一般には信じられているが、世界を見渡しても、日本に住んでも、触れることのできる宗教や聞き伝えにより知ることのできる宗教はどうも非常に属人的な要素があるように感じられる。

宗教の中心に据えられるのは、超人間的な事象であることが多い。例えば、キリストが死者のうちより復活して3日目に蘇った。キリスト教とはこれを信じることが絶対条件であり、キリスト教社会で生活するためのパスポートである。いや、かつてはパスポートであったと言ってよいのでは。なぜなら中世までの社会においては政治と宗教が強く結びつき、同じ精神社会に生きていることの表明がその社会に生きていることのパスポートであったから。そして、その表明をしなければその社会では生きた行けなかったからと考えられるから。

日本においては、隠れキリシタンなるものがあった。これも考えようによってはそのムラ社会で生活するための方策であったのかもしれないが、これは貧しい社会において共にその苦しみを分かち合いながら生きていくためであったと考えると理解しやすい。現世では幸せにはなれないが、死んだ後は天国においてここにいるみんなが幸せに暮らせるという共同幻想である。この場合、キリスト教を仏教に置き換えても、イスラム教に置き換えても、この隠れキリシタンの社会は成立するものと考えられる。なぜなら、神という相言葉を中心に成立している共同体であるので、神はその手段と考えても成立する。

オウム真理教の場合はどうであったのか。教祖は目に見える様々な奇跡?を起こし、これをビデオにまでして布教した。現実からは超越したこの奇跡?に呼び寄せられた若者が、現実社会の矛盾や苦しみから逃れるためにこの宗教に入ったとしても不思議ではない。若者は、一般的に言ってまだ社会の荒波に揉まれていない。その人生経験の不足は、世の中にはまだ私が知らない多くのことが眠っている、と思っている。これは若者の良い面でもあり、ある意味、新興宗教に付け入られる免でもある。平田容疑者の場合はどうであったのか。世間を知らずに勉強に打ち込んできた若者にこの傾向が強いとも言われた。オウム真理教の信者には、最高学府を出た、ナゼ彼が?と言われる人たちが多かった。

話は変わるが、私は40年ほど前に当時日本で勢力を伸ばしつつあった、そして多くの若者がその宗教に入信し、家族から距離をとることにより社会問題化しつつあった宗教に興味を持ち、その宗教の集会に参加したことがあった。桜田淳子が入信して話題になったあの宗教である。まだ若い私であったが、なにが若者を入信にまで導くのか強い興味があった。この宗教はキリスト教の一派と名乗っている。その説明会の明るい会場は多くの若い男女(約200名?)でいっぱいで、はまずは、美女たちによる舞踊で雰囲気が盛り上げられる。私の両隣は若い可愛い女の子だ。美男(わたしはそうではないが)美女が適度に意識できるように配置されている。なかなかいいムードだ。

次に、この宗教のかなり高位の説教師が説教を始める。この宗教が何を信じているかの説教だ。言いたいのは、キリストが私たちの信じる全てであるということだ。今でも覚えている。「キリストはαでありωである。」から講話が始まる。最初のうちは、その内容は理解範囲にあるが、次第に話が複雑(要するに理解不能、私個人の問題?)となり、ついには聞いている若者たちには何もわからないような内容となる。これで思考停止状態である。このような状態のあとで、入信するかどうかの用紙が回される。入信の意思があればそこにまずは名前だけを書き込めば良い。ひとりがその用紙に名前をかけばその隣の若者も続いて名前を書く。その次の若者も。そうして、多くの若者が入信していく。これは、まぎれもなく、集団催眠だ。平田容疑者の場合も宗教は違うがそうであったのだろうか?

宗教とは、ひとそれぞれ受け止め方は違うと思う。上に述べたのはあくまでも私が宗教に対して感じていることである。素晴らしいと感じ、また、その宗教の説く道にしたがって生きている立派な方々もたくさんいらっしゃることも知っている。私は宗教と信仰は似て非なるものであると思っている。信仰、この言葉であれば私は信じられる。


      





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井上 順孝

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