松下幸之助の「学ぶ心」 学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。 この境地にまで達するには?

PHP新書の栞に発見がある。

松下幸之助の「学ぶ心」

  学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。
  語らぬ石、流れる雲、つまりはこの広い宇宙、
  この人間の長い歴史、
  どんなに小さいことにでも、
  どんなに古いことにでも、
  宇宙の摂理、自然の法則がひそかに
  脈づいているのである。
  そしてまた、人間の尊い知恵と体験が
  にじんでいるのである。
  これらすべてに学びたい。


たとえ同じ言葉を発したとしても、それが幸之助から発せられてたものなのか、私が発したものなのかで、その意味合いは大きく変わる。その言葉の重みを比較するとその差は歴然とする。すなわち、幸之助は幼少より住み込みで働き、多くの苦労を重ねてきた。人間というもの、その本性を多く見てきた。そして苦労の末に一業を成し遂げた。苦労を知らない、そしてまだこれといった成果を世に出していない私とは比較にならない、経験に基づいた幸之助の言葉なのである。

万物全てが師である。これは学ぼうと思えばどこででも、またどんなことからでも学べるということを言っている。問題は、学びたいという気持ちの強さである。幸之助の時代から比べると、いまは生活が豊かになり、学習のためのツールも完備された。その気になれば誰でもが高等教育を受けることができる。

しかしである。日本はそのような状況にあるにもかかわらず「ゆとり教育」なるものを実施した。事業時間数を3割減らし、浮いた時間を生徒の自発的な学習に当てようとするものである。学校では、円周率のパイは3となり、加減は3桁まで、乗除は2桁まで、それを超える桁数については計算機で行うとなった。また、台形の面積を求める公式や、二次方程式の解を求める公式は教えないことになった。(今は揺り戻しで、これらの事柄は教えなければならないことになってきた。暗算ができないから、お店での小銭の支払いもままならぬような大人が出てきたことも問題となった。)

義務教育のカリキュラムにとらわれることなく、生徒は機会を見つけては大いに学ぶべきである。範囲を越えて勉強をすることを学校の教師は嫌うかもしれない(実際に息子の教師はそれを嫌った)。しかし、教師の体面を保つために、多くのできない少年、青年を作り出すことは教育の本旨ではない。せめて家庭では子供が広く考えながら学べる環境を作っていくべきだ。

「習破離」という言葉があるが、自ら学ぶのは「破離」の段階である。「ゆとり教育」の理想とする「自ら学ぶ」はこの段階で初めて実現できることだ。従って義務教育ではひたすら「習」。幸之助も素晴らしい悟りの言葉を残しているが、これは「離」の境地にまで至った者の言である。小学生に幸之助の言葉を聞かせても、意味は理解するかもしれないが、その内容を体感することは不可能である。苦労した人が、ある高みに達したとき、発することができるのが上で示した幸之助の言葉である。

人それぞれ「習」「破」「離」にかかる時間は異なるであろうが、あせらず着実に、将来を見据えて歩んでいきたいものである。学ぶことに貪欲になって。幸之助の言葉が実感できるその日を楽しみにしながら。


      

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック