槌田劭先生は1973年より炉心溶融を予言していた 津波専門家は2008年に15mの津波を警告していた

吉田昌郎・福島原発所長入院!東電ひた隠す病名と被曝線量―新聞・テレビなぜ追及しない?(J-CAST、12月3日)というタイトルが出るくらい、福島第一原発の前吉田所長の病状はベールに包まれている。6mの津波想定で作られた福島第一原発に、2008年に専門家より15mの津波想定が報告されたとき「そんなことがあるはずがない」と即座に否定したのが吉田全所長であると毎日新聞は報じている。そのことは、先日のブログ、

東電の吉田昌郎所長が急遽病気入院 前日の「15mの津波など来るはずがない」焦点の人報道が主原因か?

に記した。

吉田前所長病状めぐり憶測飛びかう ネットで「吐血説」、写真週刊誌「嘔吐説」(JーCAST、12月2日)なども飛び交い、その真実は闇の中だる。可能性を考えると、東電が健康悪化でもの言えなくなった吉田前所長にすべての責任を押し付けていると考えることもできる。吉田前所長には、早く健康を取り戻し、真実がどうであったかを述べてもらいたい。

本日のブログのポイントは、福島第一原発で発生した炉心溶融の事態が、はるか前から予想されていたという事実をまとめることにある。

2008年 15m超の津波が来るとの専門家の見解を東電が否定、なんら対処せず
2009年 書籍「化学を哲学する」で槌田劭(つちだたかし)が原子燃料被覆管の溶融破壊について触れている
      下にその部分を引用した。これはスリーマイル島原子力発電所事故でもそうであった。原子力の専門家で
      ない著者がそのことについて調査したところ、すぐにその危険性に行き当たっている。
      (※私見であるが、水素爆発の水素がそこから来たかを考えると、当然原子炉圧力容器に穴があいて
       いたことになる。そのような報道はなされたことがない。)
2011年 3月11日に想定外の原子力事故が発生。最近炉心溶融が起こり、原子炉圧力容器の底に穴があいて、
      溶融した原子燃料が原子炉格納容器底のコンクリートを65cmも融かしていることが判明した。
      福島1号機の溶融燃料 底部コンクリ65センチ侵食(東京新聞、12月1日)

この流れを見て恐ろしく思ったのは、原子力を専門とする人たちにとっては「当たり前におかしいこと」がまかり通って来たのではないか。そしてそれは企業の利益が最優先、そしてそれに伴う利権構造によって、地域住民の生きる権利が甚だしく傷つけられてきたのではないかということである。

槌田劭先生が、原子力の専門家と四国電力・伊方原子力発電所建設時に裁判所で戦った関係の文書もWebより下に引用させていただきました。



談論風発! 化学を哲学する 近畿化学協会編(2009年5月30日、化学同人)

第2章 エコロジー幻想論 いま科学のあり方を問う  槌田 劭

※部分引用しました

心あたたかい知性を

世を上げて「金主主義」に流れるとき、自然科学もその圏外にいることは難しい。

 曲学阿世(きょくがくあせい)とは
世の中に気に入られるように自説を曲げ、信念も気概もなく時流に媚び諂うこと。
真理がわかっているのにも関わらず、自分の身の保身に走って真理をねじ曲げること。
出典は史記の儒林列伝。

1973年に四国電力の伊方発電所に反対する住民裁判に証人として

多くの問題点があった。たとえば、燃料被覆管に使われているジルカロイ合金の高熱水蒸気との酸化反応の恐ろしさは決定的である。重大事故の際に炉心崩壊は避けられない、ということである。事故時に起こりうる事態の想定を極端に甘くしない限り、発熱反応によるポジティブフィードバックは破局的なものだ。このことは、後にスリーマイル島原発事故において、炉心崩壊の現実となっている。他方、国側の議論は、「科学を信じよ」「重大事故はその確率100万分の1で、隕石が・・・」と行った程度であり、「安全にできているから、安全だ」というようなものであった。他の多くの論点についても、住民側の承認たちの主張は国側の主張を論破するものであり、国側の権威者たちは赤っ恥をかかされた。

そのような住民側有利の裁判は国側にとって想定外だったのだろう。承認調べが完了した時点で、信じられぬことだが、国は裁判官人事に介入したのである。証人調べを目撃すれば、科学技術的内容は十分に理解できなくても、証人の発言の調子や態度から総合的に判断可能であろう。このままでは不利とみての裁判官差し替えであり、裁判の結論を予感させた。裁判は予感どおり、理不尽なものであった。証人調べの成果をまったく吟味もせず、国の主張をそのまま「正しいと認定」し、その認定に基づいて「証人××の証言は採用しがたい」と私たちの証言は無視された。



第九回 長池講義 槌田劭講義レジュメ2011/10/15
槌田 劭

※部分引用いたしました。

原発と「科学」

•科学にたいする疑問

 私はもともと京都大学の工学部で金属物理学を専攻する科学者だった。
 しかし「専門家の世界」とか「素人の世界」というように分断された世界は不幸をもたらすとの確信をもった。そこで意識的に「科学者」というスタンスから発言することを辞めた。
 きっかけは、1973年に四国電力の伊方発電所に反対する住民裁判に証人として参加したこと。その裁判を通じて、日本社会の深刻な矛盾を目の当たりにした。同時に科学技術信仰に裏打ちされた工業文明の犯罪性に対する絶望を深めた。それが私が科学者を辞めることになった直接のきっかけ。


•専門家の「無恥」と「無知」

 3月11日の東北関東大地震災が起こった時に、私は福井県の日本有機農業研究会全国大会に出席していた。真っ先に思ったのは「女川原発は大丈夫だろうか? 福島の原発は大丈夫だろうか?」ということだった。直後に津波で電源が喪失したと聞き、私の頭の中は真っ白になった。もう祈るしかない。なぜならば、このような状況になれば炉心溶融は避けられない。
 3・11の直後に、福島第一原発の原子炉が炉心溶融をしているという見解を私たちの研究会で出した。私がそれを言った時、研究会の中でも「まさか」という声があったが、新聞に出ている小さな記事のいくつかから予想すると必然的にそうなる。
 新聞では「燃料棒のところに水が入っているか、入っていないか」というバカバカしいことを報道していた。このバカバカしさを「専門家」と言われる人が誰も指摘しないということが「専門家」なるものの視野の狭さを露呈させている。彼らの解説能力がゼロなのか、隠蔽しているのか。そのどちらだったにせよ、彼らにこんな恐ろしい技術を扱う資格はない。
 あの発電所の中で何が起こっているのかなど、いまだに誰にも分かっていない。近づきたいと思っても怖くて近づけないのだから、みんな想像するしかない。その後に状況が少しは明らかになってきて、メルトダウン、メルトスルーが判明した。しかし、メルトスルーでこぼれ落ちた燃料が下にどのくらいたまっているのかについても分からない。水位計の数字が正しく働いている保証などどこにもない。圧力容器の中に水がどれくらい入っているかなんて予想をたてても仕方がない。
 いま大事なのは、第二のチェルノブイリ、第二の福島を起こさないようにするにはどうしたらいいのか。また、福島の人々の今後の生活をどのように考えることができるのか、という議論である。専門家と言われる人がどれほどインチキなものかは、事故後の一連の流れを見ても明白。彼らには「想定外」がものすごく多い。こうした「無知」で「無恥」な専門家たちの指示で動いてパニックになれば、分からないことだらけになって当然。私は「科学というのは罪科(つみとが)の学だ」と言っている。このような「科学(とががく)」はものごとをけっして全体で見ようとせず、専門領域の中で部分的真理ばかりを探究する。そして深刻な事故が起こると枝葉末節の議論に終始し、情報を隠蔽する。
 このことを知っただけでも、原発なんて残しておいたら大変なことになるということが分かる。だから、他の難しいことは実はどうでもいい。「そんな人たちに私たちの社会を任していていいのかどうか」ということ。そのことを素直に考えてみるだけで十分。



③原発にみる反生命の無理と金銭利害
 原発は原子の破壊によって巨大なエネルギーを取り出す技術である。一方、いのちは常温の生物化学エネルギーで生きる。原子の安定性が基本である点で、原子力は生物原理の対極にある。放射線のエネルギーは大きく、細胞を損傷することが被曝の危険となる。
 原子力が巨大なエネルギーであるため、原発建設に巨額の金が動く。危険であるから過疎の農漁村に立地され、巨額の金で農村社会をずたずたにする。原発は有機農業の共生の原理の対極にある悪魔の科学技術である。


(この講演は「原発と『科学』──「部分的真理」の無恥から共生の世界へ」と題して、『atプラス』10号に掲載されています)




伊方原子力発電所(Wikipedia)

反対運動 [編集]

1969年10月13日、賛成派だった元伊方町長の川口寛之を中心に伊方原発誘致反対共闘委員会が結成される。翌1970年5月7日、機材の陸揚げを阻止するための実力行動を行う[3]。同年10月、伊方町原発誘致反対共闘会議結成[4]。

1982年11月18日の3号機増設の1次公開ヒアリング(町見体育館)に対して、愛媛地評などよる「公開ヒアリング阻止闘争共闘会議」が約2000人を集めて、前夜から当日にかけてヒアリングを開催させない監視活動を行った。当日の早朝には、ヒアリング会場までデモを断続的に繰り返した[5]。

1985年10月4日の3号機の第二次公開ヒアリング開催に対しても愛媛地評を中心に10月8日、県民共闘が結成され2000余人の抗議集会が開かれた。上記の2回のヒアリングはいずれも開催された。

1988年1月25日、大分の反原発団体などの呼びかけで、伊方原発調整運転に反対して高松市でデモ[3]。同年10月30日、「原発とめよう伊方集会」に300人が集まり、参加者が手をつなぎ、「人間の鎖」をつくったり、3号機建設中止を求めるパレードを行ったりした[6]。

2010年1月18日、3号機で実施を計画しているプルサーマルの中止を求めて、愛媛県の住民団体などが国会内で経済産業省原子力安全・保安院などに要請した。要請したのは市民団体と愛媛県の共産党・社民党などの政党が参加する「伊方原発プルサーマル計画の中止を求める愛媛県民共同の会」で、計画の中止や伊方原発周辺の海底にある活断層の詳しい調査を行って伊方原発の耐震安全性評価をやり直すことなどを求めた。[7]



2010/11/14(日)

あとがき

 2000年12月15日、23年間に及んだ、愛媛県伊方町民を中心とした住民が国を相手取って起こしていた四国電力伊方原発二号炉設置許可取り消し訴訟の判決が、松山地方裁判所(豊永多門裁判長係)で行われた。判決は、最大の争点だった「原発敷地沖のA級活断層」の存在を認めながら「原子力機器の安全を脅かすものではない」と、国側が活断層を見落としたズサンな安全審査を支持し、住民側の訴えを退けた。原告は判決後ただちに「司法愚政に屈せど民意滅びず」との声明を出し、判決を「矛盾に満ち、文章にもなっていない判決だ」と裁判所の姿勢を厳しく批判した。

 判決終了後、松山市民会館で催された原告団と支援者の集会の席上、原発に最も近い地域に住む大沢喜八郎さんは「原発は金をバラ播き札束で人の心を傷つけてきた。行政や政治家も同じで地域の人々の生活や心を踏みにじってきた」と激しい怒りの言葉をかくさなかった。同じ伊方町の根来兵衛さんは「原発が建てられた岬は大きな松が立っていて見晴らしが良く風景もいい場所だった。それが原発の来たおかげで岬が削り取られ、今では私らが憩うこともできない」と住民の心の安らぎの場も奪われた悔しさをにじませていた。

中略

 思うに、伊方に原発が来て30年、原発反対運動は、原発立地周辺に居住する我々の生活権やプライバシー保護、さらには平和な社会生活と暮らしを獲得する歴史であったともいえる。「バラ色の産業」として入り込んできた原発は決して伊方を豊かにはしなかった。道路や建物は立派になったが、人々の心は傷つき、人間の信頼は失われた。虚構の町に変わりつつある。伊方住民は日々不安と脅えの中での暮らしを余儀なくされた。原発事故を絶えず心配しなればならない子供の未来は哀れである。

後略
   2002年3月   斉間満    


著者紹介

斉間 満(伊方原発反対八西連絡協議会会員・1943年生)
(さいま みつる)

 伊方原発建設当初、地方紙の記者として取材したのが伊方原発との関わりの始め。取材していく中で地元にあるローカル紙が原発の危険性に少しも触れないことに疑問を感じて焦りを覚える。経験も知識も資金も貧しい中ではあったが、地元で原発を批判していく必要を強く感じて1975年「南海日日新聞社」を立ちあげる。以来一貫して原発反対と匿名報道を貫き、伊方町を含む周辺の町や八幡浜市の人々に原発の危険性を伝え続けてきた。

 2006年10月17日永眠。

原発の来た町―原発はこうして建てられた/伊方原発の 30年

 斉間 満 著
 南海日日新聞社 2002年5月 27日発行
 【再版】
 反原発運動全国連絡会 2006年 10月 31日
 http://www.hangenpatsu.net


      

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